へ~、この道ってキリストが歩いたんや~。いやいや、普通に吸殻とかゴミ落ちてるけど大丈夫なん?
はいどーも~、ビールが安いんで、水よりビール飲んでます森です。
続きいきまっせ~
ほい、ではキリスト教の聖地。というか、キリストが死刑判決を受けて十字架を背負って歩いた道のレポートです。
聞いたことありますかね?
その名も
ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)
エルサレムの旧市街の中にありますっ!!
この教会では死刑判決を受けたキリストが鞭で打たれ、それはそれは大きな十字架を背負わされました。
ちなみに向かって1番左の白い服にリュックを背負っているのが、今回一緒に見学したクリスチャンのホセ(コスタリカ人 49歳)です。
コレが実物大であろう十字架。
イエス・キリストはこんな大きな十字架を背負って悲しみの道を歩いたらしいですが、私は「天然パーマ」という途方もない大きさの十字架を背負って悲しみの道を歩きました。
教会の装飾は茨でした。(やりすぎやろ)
扉の装飾は鞭でした(わかりやす過ぎやろ)
こんな感じで「悲しみの道」の案内があります。
教会のステンドグラス
ほい、これが実物の悲しみの道のスタート地点です。
ここがキリストが十字架を背負って歩いていて初めて躓いたところ。
建物の中
ここがシモンさんが十字架を肩代わりしたところ
現代の悲しみの道では子供が元気に遊んでいます。
まだあるんですが、端折って最後のスポットです。
聖墳墓教会、別名「ゴルゴダの丘」。
キリストが磔にされた場所です。
この絵の横たわっているのがキリストさん
この石がキリストが横たわった場所らしいです。
教会内は広くて静かでしたよ。
なんかやってはりました。
その前では可愛い子がろうそくに火を灯していました。
私はクリスチャンではないのですが、教会って神聖な雰囲気があって静かでいいなと思いました。
ここでも仏教徒スタイルで世界平和を真剣に祈りました。
さて、如何でしたでしょうか?
エルサレムの旧市街にはこんなにも聖地が盛りだくさんっ!本物かどうかは知りませんけどね。
まあ、この辺りは観光地なので、新聞やニュースに出ているような危険なことは起こっていません。
旧市街の周辺?のスラム街(パレスチナ人が住んでいるところ)は催涙弾や石やビンが飛んできますが。少年がナイフ出してきたりね。
前回のタイトルにあった「聖地ってそんな重要?」についてです。これから書くことは率直な感想です。そしてあくまで個人的な考えなのであしからず。
例えばネパール・インドで回った仏教の四大聖地。仏教の目的は悟りを開くことです。なので聖地は関係ありません。別に聖地に訪れたからといって悟りの境地に達するワケではありません。私みたいないい加減で無自覚な仏教徒が聖地に巡礼しても、もちろん悟りの境地に近づくことなんて、まずありえません。聖地に訪れなくても毎日ちゃんと修行に勤しんで、悟りの境地に近づいている人達は必ずいます。なので仏教において「聖地」というのは、本来の目的から考えて行っても行かなくてもいいところだと思います。まーでもせっかく残っているのだから、保護して参拝しても良しだと思いました。
ではこのイスラエルの聖地はどう感じたか?それはまだもやもやとして私の中にあります。パレスチナ・イスラエルの問題、中東戦争、その問題の重要なファクターが宗教と歴史です。少し前まではガザが空爆されていました。パレスチナ自治区では今でもパレスチナ人とイスラエル人がやりあっています。「イスラムの国」が勢力を増して、トルコ国境にまで達しています。それらの問題の原因は、簡単には言えないのですが、もし言うならば宗教と歴史が原因です。
今回イスラエルで世界宗教の聖地を、これらの問題を念頭において見学して思ったこと。宗教というものが本末転倒している。本来ならば救いや安らぎを求めるはずの宗教が、明らかな戦争の原因になっている。聖地では本当に大勢の人々が祈っていました。何を祈っていたのかは分かりませんが、平和的な願いだと思います。これだけの人達が祈っているのにもかかわらず何も変わらない。むしろ聖地が紛争や問題の要素になっている。もう壊してしまえばどうか?そろそろ気付け、あなた達の神は何も解決してくれないぞ?
はい、ただの個人的な考えです。
私は神は信じませんが、神はいると思います。
意味不明ですね。
簡単に言うと、世界宗教の神は信じません。ヤハウェもゴッドもアッラーも信じません。しかし、超越的な「なにか」はあると思います。少々オカルトチックになってきましたね。でも、科学とオカルトは同じです。
私の神はいつも、私の心の中にいます。
(別に怪しい宗教に目覚めたわけではないのでご心配なく)
みなさんも一度、宗教ってなんなの?と真剣に考えてみてはいかがですか?
ではでは次回はパレスチナ自治区の「ベツレヘム」です。