今回は重いよ。でもちゃんと考えなあかんことやから、ちょっと付き合って下さい。
はいどーも~!!!ドバルダン!(ボスニア語でこんにちはの意味)ブルガリアのドーボルデンとそっくりですね。そういえば「Yesはダ」「Noはネ」っていうのも同じです。そらスラブ系言語やから似てて当然か!と、1人納得している森です。こっちの人が「うん、うん。」ていうとき、「ダッ、ダッ。」と言ってて、それが可愛いです。
突然ですが皆さん
この国旗をご存知ですか?
この国旗は「ボスニア・ヘルツェゴビナ」という国の国旗です。
みなさんも社会の教科書で目にしたことがある国だと思います。
私がクロアチアの後に訪れたのは、ボスニアの首都である「サラエボ」という街です。
この国は結構すごい国で、
第一次世界大戦のきっかけとなった「サラエボ事件」の舞台であり、
その後1984年に「冬季サラエボオリンピック」が開かれ、
旧ユーゴスラビアからの独立で1992年から「ボスニア紛争」があった国です。
そら教科書のるわな。
では順番に
「ラテン橋」
サラエボ事件の現場です。この橋の上でオーストリアの皇子夫妻が殺されるという事件が起き、その事件がきっかけとなって第一次世界大戦が勃発しました。
橋の上には色んな人の想いがこもった錠がかけられていました。
上に記した通り、この事件はトリガーだったようです。すでに当時の東欧では各国様々な思惑があり、この事件がその引き金となったのだそうです。
ここで放たれた数発の銃弾が、後に1000万人程(800万~1500万と幅がある)の戦死者を出す戦争の引き起こしたのでした。
では次、サラエボ冬季オリンピック
の、マスコットキャラ「ブチコ」さん?くん?
この看板、弾痕がすごいですね。この弾痕は紛争のときのものだと思います。
で、話が交差しますが、
このオリンピックタワーのは、オリンピックスタジアムに建っているのですが。
スタジアムの敷地内は
墓地になっています。
話が交差するといったのはこのことです。
この墓地はボスニア紛争(独立戦争)のときの戦死者を埋葬した墓地です。ボスニア紛争の後期「サラエボ包囲」という局面で、膨大な戦死者が出ました。その犠牲者達を運ぶこともできず、埋葬する場所もなかったため、このオリンピックスタジアムの補助グランドが墓地として使用されたようです。
この写真は墓地のごく一部です。この数倍はあります。というか、街中にもけっこう墓地があります。
では、上に記した「サラエボ包囲」とはどんな状態だったのか?
こんな状態です。「C」の字に包囲されていますね。包囲しているのは「セルビア人勢力」です。そして、向かって左下の飛行機がある部分が当時の国連軍が抑えていた場所です。
完全に包囲されていますね。当時は1日平均380回の砲撃が、サラエボの市街地に行われたそうです。ひどい日には3000回以上の砲撃があったそうです。
この絵の写真で、サラエボの街を東西に貫くメインストリートがわかりますか?
その通りが通称「スナイパーストリート」です。当時は猫であろうと人間であろうと、その通りで動くものは全て狙撃されたそうです。市民は生活のために食料を調達しなければなりません。そんなときに狙撃されたそうです。
スナイパーストリート
この壁の穴は狙撃の跡です、つまり弾痕です。
これは補修の跡でしょうか
今はこの様になっています。
そして、もうひとつ有名なのが「サラエボのバラ」です。
狙撃されて犠牲者がでたところに赤い樹脂のようなものを流し込んだものです。
樹脂が剥げてきたもの
道路を横断中に撃たれたんでしょうか
教会の前にもありました。
以前はもっと多く残っていたようですが、だんだんと無くなっていき、現在は数個を残すのみとなっていました。
私が探して見つけられたのは上記のものだけです。
バスのチケットを買いに行くのに、トロリーバスに乗って少し離れたバスターミナルにチケットを買いにいったのですが。その道中、トロリーバスの車内が混雑してきました。私の周囲は私と同じ年齢か、それ以上の人達ばかりでした。
ボスニア紛争は1992~1995。今から19年前に紛争が終結したとしても、私の周囲にいる人達はおそらくみんなが戦争経験者。それでも現在は和やかな雰囲気で笑いあったり、話したりしている人が多かったです。「兄ちゃん、ココが終点だぜっ!」と教えてくれたおじいさん、ありがとうございました。
ボスニア包囲、包囲なんで、食料等の物資はもちろん遮断されていました。当時の国連軍には力がなく、何もすることができなかったようです。国連軍ができたことは、サラエボ市民が物資を運ぶためのトンネルを掘ることを「見て見ぬふり」することだけでした。
うん、1995年なら、私はまだ10歳です。多分アホ面でその辺りを走り回っていたと思います。3ケタの掛け算わからへ~ん!とかゆーてたと思います。でも衣食住はことたりていましたし、明日の心配をすることもありませんでした。そんなことを考えていると、なんか、申し訳ない気持ちになりました。
ボスニア紛争関連の資料をいくつか見ましたが、どれも悲惨なものばかりでした。難民として故郷を捨てざるを得なかった人、それでも現在は幸せそうにしていらっしゃいました。
さて、少し前にあったこの出来事。同じ人間としてそこから学び、もう過たないようにすることが大切なんだと思います。
しかし、今現在この瞬間に、中東では戦争が起こっています。国の思惑、歴史、宗教の対立、戦争マネー、そんなんもーええって。
何か出来ることはないのでしょうか。
どっかの国の誰かの戦争。そういう意識を変えないと、何も変わらないのしょうか。